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ルーテル教会の信条

Faith of Lutheran Church

*「主の祈り」は信条ではありませんが、諸礼拝において必ず唱えられる重要な祈祷文であるために紹介しています。

このほか、日本福音ルーテル教会は教憲において『アウクスブルク信仰告白の弁証』、『大教理問答』、『シュマルカルデン条項』および『和協信条』を信条として定めています。

主の祈り

Lord's Prayer

マタイによる福音書6章9節以下で主イエス・キリストが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えた祈祷文。西方・東方のほとんどのキリスト教会が祈りの定型文として取り入れている。原文はギリシア語。以下の訳は国内のローマ・カトリック、聖公会、ルーテル教会において共通して用いられている​もの。(ただしローマ・カトリックでは末尾の頌栄「国と力と栄光は……」を「主の祈り」に含めず、副文の結びとして用いる。)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧
(かて)
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン。

1550年にヴィッテンベルクで発行された『小教理問答』挿絵より

​イエス(中央)が弟子たちに祈りを教えている様子を描く。

​使徒信条

Apostles' Creed

西方教会(ローマ・カトリックとプロテスタント教会)で共通して用いられる信仰告白。ローマ教会の洗礼式で用いられていた「ローマ信条」が原型とされており、2世紀後半に成立したとみられる。「使徒信条」という名称はこの信仰告白が使徒たちの忠実な信仰のまとめとされていることによる。原文はラテン語。

天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。


そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。


聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活と永遠のいのちを信じます。

13世紀の写本より

使徒たちが鳩のような姿をした聖霊(中央上)を受けて信条を書いている様子を描く。

ニケア・コンスタンチノープル信条

Niceno-Constantinopolitan Creed

使徒信条が西方教会だけで用いられるのに対し、こちらは東方教会(正教会)でも用いられる。325年のニケア(ニカイア)公会議で採決された「原ニケア信条」を381年の第1コンスタンティノポリス公会議で改訂したもの。原ニケア信条が多くの教派で用いられなくなったために、現代ではこちらがもっぱら「ニケア信条」と呼ばれる。原文はギリシア語。

天と地と、すべての見えるものと見えないものの造り主、全能の父である唯一の神を私は信じます。


唯一の主イエスキリストを私は信じます。主は神のひとり子であって、すべての世に先立って父から生まれ、神の神、光の光、まことの神のまことの神、造られたのではなく、生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。主は私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人となり、ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました。そして父の右に座し、栄光のうちに再び来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。その支配は終わることがありません。


主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられます。また、預言者をとおして語られました。


唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を私は信じます。罪のゆるしの唯一の洗礼を私は受けいれます。死人の復活と来たるべき世のいのちを待ち望みます。

ナジアンズの聖グレゴリオ

第1コンスタンティノポリス公会議の議長を務めた。

​以上、いずれも日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団『ルーテル教会礼拝式文』(2019年改訂版)より引用。

主の祈り
使徒信条
ニケア・コンスタンチノープル信条

アタナシウス信条

Athanasian Creed

三位一体とキリストの受肉の教理に関する信仰告白で、5世紀前半までに成立したとみられる。イエスの被造物性を主張するアリウス派に対抗したアレクサンドリア主教アタナシウスによるものとされてきたが、最近の研究ではアタナシウスの手によるものではないという見方もある。東方教会では一部を改定したものを典礼に用いているが、信条としては採用していない。原文はラテン語。

  1. 救われたいと願う者はみな、すべてのことに先立って、公同の信仰を保つことが必要である。

  2. この信仰を完全に、汚すことなく守るのでなければ、疑いもなく、永遠に滅びる。

  3. 公同の信仰とは、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ

  4. 位格を混同せず、本質を分離しない信仰である。

  5. 父の位格、子の位格、聖霊の位格はそれぞれ異なる。

  6. しかし、父と子と聖霊の神性は一、栄光は等しく、尊厳は永遠。

  7. 子と聖霊は父と同じである。

  8. 父は造られたものでなく、子も造られたものでなく、聖霊も造られたものではない。

  9. 父は測り知れず、子も測り知れず、聖霊も測り知れない。

  10. 父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。

  11. しかも永遠なものは、三でなく一。

  12. 造られないものが三あるのでないように、測り知れないものも三あるのではなく、造られないもの、測り知れないものはただ一つ。

  13. 父は全能、子も全能、聖霊も全能。

  14. しかも全能なものは、三でなく一。

  15. このように、父は神、子も神、聖霊も神。

  16. しかも、神は三ではなく一。

  17. このように、父は主、子も主、聖霊も主。

  18. しかも主は三ではなく一。

  19. キリスト教の真理によって、それぞれの位格を、個別に神であり、主であると告白することが求められており、三神三主について語ることを、公同の信仰によって禁じているからである。

  20. 父はなにものから成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。

  21. 子は父からのみ生まれたのであって、成ったのでも、造られたのでもない。

  22. 聖霊は父と子から出るものであって、成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。

  23. だから、父は一であって三ではなく、子も一であって三ではなく、聖霊も一であって三ではない。

  24. また、この三位一体においては、どれが先でどれが後、どれが大でどれが小ということはない。

  25. むしろこの三位格はみな、ともに永遠で、同等である。さきに述べたとおり、
    すべてをとおして、三位が一体において、一体が三位においてあがめられるのである。

  26. それゆえ、救われたいと願う者はみな、三位一体について、そのように信じなければならない。

  27. さらに、われわれの主イエス・キリストの受肉についても、正しく信じることが永遠の救いのために必要である。

  28. 正しい信仰とは、われわれの主イエス・キリストが神の子であって、神であり人であることを、われわれが信じ告白することである。

  29. 神であるというのは、すべの世に先立って父の本質から生まれたことであり、人であるというのは、この世に母の本質から生まれたことである。

  30. キリストは完全な神であり、完全な人であって、理性的な魂と人間の肉をとっていて、

  31. 神性にしたがえば父と等しく、人性にしたがえば父より小さい。

  32. 神であり人であっても、ふたりのキリストではなく、ひとりのキリスト。

  33. 神性が肉に変わったからではなく、神のうちに人性をとったから、ひとりのキリスト。

  34. 本質の混同によってではなく、位格が一であるから、ひとりのキリスト。

  35. 理性的な魂と肉とがひとりの人となるように、神と人とがひとりのキリストになっている

  36. キリストは、われわれの救いのために苦しみを受け、よみに下り、死人の中から復活し、

  37. 天に昇り、父の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばく。

  38. 主が来ると、すべての人はからだをもって復活し、おのおの自分の行いについて申し開きをするのである。

  39. 善を行なった人は永遠のいのちに入り、悪を行なった人は永遠の火に入る。

  40. これが公同の信仰である。これを忠実に、また確実に信じる者でなければ、救われることはできない。

アレクサンドリアのアタナシウス

第1ニケア公会議でアリウスの論を退け、三位一体の教理形成に貢献した。

​信条集専門委員会 訳『一致信条書―ルーテル教会信条集』教文館, 2006. より引用。

アウクスブルク信仰告白

Confessio Augustana /  Augsburger Konfession

フィリップ・メランヒトンによって起草されたルター派教会の信仰告白。1530年にアウクスブルクの帝国議会においてローマ・カトリックの諸侯らの承認を求めるために発表された。この時は諸侯側から退けられたが、ルターの死後、1555年のアウクスブルク信仰和議でドイツ帝国において諸侯が自領の宗教としてルター派を選択することが認められた。メランヒトンはカルヴァンやツヴィングリの神学との折り合いをつけようと1540年に改訂を行っている(聖餐をキリストの「象徴」とした)が、ほとんどのルター派教会は改訂前のものを信条として採用している。また関連文献として、ローマ・カトリック側から提起された批判に対する応答の『アウクスブルク信仰告白の弁証』もある。原文はラテン語とドイツ語。長大なのでここでは要約して紹介する。

第一部 主要信条

第1条 神について

父・子・聖霊の三位一体の教理とそれを教えるニケア信条は真実である。

第2条 原罪について

人間は生まれながらに原罪を負っており、洗礼と聖霊とによって再生しない者には永遠の死をもたらされる。

第3条 神の御子について

イエス・キリストは真の神であり、真の人である。イエスは処女マリアから生まれ、苦しみを受け、死んで葬られ、三日目に復活した。イエスは十字架の死によって人間の罪を贖い、生者と死者をさばくために再び来られる。こう教えている使徒信条は真実である。

第4条 義認について

人は行いや功績によって義とされるのではなく、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恵みにより義とされる。

第5条 教会の役務について

教会の役務は聖礼典の執行と福音の宣教である。

第6条 新しい服従について

信仰は善い実を結び、神から命ぜられた善き行いをするのは神の御心のためであって、その行いによって義とされることを確信するためではない。

第7条 教会について

教会は時が続く限り、続くべきものである。また、教会は聖徒の会衆であり、福音が正しく教えられ、聖礼典が正しく執行される。教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば十分である。人間的に定められた儀式や式典がどこにおいても同じであるという必要はない。

第8条 教会とは何か

教会は聖徒と真の信仰者の会衆である。しかし、聖礼典が偽善者や悪しきキリスト者によって執行されたとしても、キリストの設定と命令ゆえにそれは有効である。

第9条 洗礼について

洗礼は救いに必要あり、洗礼によって神の恵みが与えられる。また、幼児は洗礼を受けるべきであり、洗礼によって神に捧げられ、神の恵みを受ける。

第10条 主の晩餐について

キリストの真のからだと血とは、パンとぶどう酒という形態のもとで実際に存在し、分け与えられ、受領される。

第11条 ざんげについて

個人の赦罪宣言は各教会内で保持されるべきであるが、ざんげにおいて自分のすべての罪を列挙することは不可能であるから必要ない。

第12条 改悔について

洗礼後に罪を犯した者は、悔い改める時はいつでも罪のゆるしを得る。信仰は、キリストによって罪がゆるされたことを信じることで人を恐怖から解き放つ。そして改悔の実である善き行いが必ず続く。

第13条 聖礼典の使用について

聖礼典は、個人の信仰告白のしるしとなるだけでなく、神の御心の証であり、信仰を強めるために定められたものである。

第14条 教会の職制について

正規に召されたものでなければ、教会で公に教えたり、聖礼典を執行したりしてはならない。

第15条 教会の儀式について

教会にとって有益な特定の祝日や祭日などは、罪となりうるもの以外は守られるべきである。しかし、それが救いの条件であるかのように考えてはならない。

第16条 公民生活について

正当な法律や規則は神の善き御業であり、キリスト者が公民生活を送るのは正当である。キリスト者は為政者や法律に従うべきだが、彼らが罪を犯させる場合はそうではなく、人ではなく神に従わねばならない。

第17条 審判のため​にキリストが再臨することについて

終末の日には、主イエス・キリストが審判のために再臨し、死者をよみがえらせ、敬虔な者と選ばれた者には永遠の生命と喜びとを与える。

第18条 自由意志について

人間には公民的正義を行ういくらかの自由意志があるが、聖霊なくしては神の義を行うことはできない。み言葉によって聖霊を受けるとき、心の中でこれが行われる。

第19条 罪の原因について

罪の原因は、悪しき者、すなわち悪魔と不敬虔な者の意志である。

第20条 信仰と善き業について

人間は善い行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされる。善い行いは必要なものではあるが、それは神の御心ゆえに行われる。

第21条 聖徒​の崇拝について

聖徒たちの信仰や善き業にならうように、聖徒を記念すべきである。しかし、聖徒を呼び求めることや聖徒の助けを求めることを聖書は教えていない。

第二部 改正された悪弊を詳論した条項

第22条 主の晩餐におけるパンとぶどう酒について

主の晩餐はキリストが命じた通りパンとぶどう酒の二種を信徒は受けるべきであって、パンだけを信徒に与えるのはキリストの命令に反する。

第23条 司祭の結婚について

神の特別の賜物と恩寵なしには独身生活を送ることは難しいので、独身生活に適していない人は結婚すべきである。

第24条 ミサについて

ルター派教会はミサを廃止したのではなく、ミサから悪いものを取り除いた上で最高の尊敬をもって保持しているのである。

第25条 告解について

ルター派教会は告解を廃止したのではなく、すべての罪を数え上げることを廃止したのである。

第26条 食物の区別について

罪の償いとして食物の区別が有効とされる伝統があるが、これは誤りである。また、すべてのキリスト者は節制や身体的鍛錬、労働によって自己を制御し、ぜいたくと怠惰が自分を刺激して罪を犯させないようにするべきである。

第27条 修道士の誓願について

修道士・修道女の誓願は、罪のゆるしや恩恵、義認に値するものとはならない

第28条 教権について

教会の権力と俗世の権力とは混同されるべきではない。教会の権力は福音の宣教と聖礼典を執行のみにあり、他の領域に侵入させてはならない。​教会の監督は福音に反する規定を作る権威を持たない。

フィリップ・メランヒトン

人文主義者。ルターの盟友として福音主義神学の体系化に貢献した。

​要約にあたっては、信条集専門委員会 訳『一致信条書―ルーテル教会信条集』教文館, 2006. を参考にしました。

アタナシウス信条
アウクスブルク信仰告白

小教理問答

Der kleine Katechismus

1529年にマルティン・ルターによって書かれた教理問答書。ザクセン領内の教会を視察したルターが教理教育の必要を強く感じて書き上げたもの。教職向けに書かれた『大教理問答』に比べ、親が子どもに語りかけるような平易な問答形式となっており、信徒教育や家庭教育において用いられることが想定されている。ルターはこれを『エンキリディオン(必携書)』とも名付けている。原文はドイツ語。長大なのでここでは目次だけを紹介する。

第一部 十戒について​​

第二部 信仰告白(使徒信条)について

第三部 「主の祈り」について

第四部 洗礼の聖礼典について

第五部 聖壇あるいは主の晩餐の聖礼典について

第六部 鍵の権能と告解について

​(付録)

  • 朝夕の祈りについて

  • (食事の)祝福と感謝の祈りについて

  • 聖句による格言集

  • 結婚式のための式文

  • 幼児洗礼のための式文

1529年出版のルター『小教理問答』の扉ページ

直訳すると「小カテキズム/一般牧師と説教者のために/マルティン・ルター/ヴィッテンベルク」

小教理問答
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