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ルーテルとは?

What's Lutheran?

​ルターと宗教改革
Martin Luther's Reformation

1517年10月31日、

『95箇条の論題』発表

95ヵ条の論題」を掲示するるルター

『95箇条の論題』を掲示するルター

フェルディナンド・パウエルス画 1872年

ただし、ルターが実際にこのようにヴィッテンベルク城教会の門扉に『論題』を釘で打ち付けて掲示したかどうかは定かではない。​神学者・司祭向けにラテン語で書かれたルターの原本が何者かによってドイツ語に翻訳され、瞬く間に人々の間に流布されたのは確からしい。

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ヴィッテンベルクの広場で回勅を焼くルター

​カール・アスペリン

「教皇も時には誤る」と教皇の無謬性を否定したルターを放っておく訳にはいかなくなったヴァチカンは、自説を撤回しなければ破門するという脅迫的な回勅「エクススルゲ・ドミネ​(主よ立ちたまえ)」をルターに叩きつけたが、彼は公衆の面前でそれを焼却した。しかも焼却したのは回勅書だけではなく、教会法典やスコラ神学の書物もともに焼き棄て​ることによって古い神学との決別を表明した

帝国議会で自説撤回を拒否するルター

​アントン・フォン・ヴェルナー 1877年

ルターは「我ここに立つ Hier stehe ich!」という言葉で聖書のみことばに固く立ち続ける意志を強く表明した。

 当時の教会では、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改修のための資金集めとして「贖宥状(しょくゆうじょう)」が乱発され、人々の間には「救いを金銭によって得る」という誤った考え方が広まっていました。贖宥状販売に熱心だったローマ・カトリックの修道士ヨハン・テッツェルの「グルデン金貨が棺桶でチャリンと鳴ると、魂が天国へヒューンと飛んでいく」(注1)という売り文句が有名です。そうした信仰のあり方について一部の神学者から疑問が持たれるようになりました。その一人であるヴィッテンベルクの司祭・神学者マルティン・ルターは、1517年10月31日に『95箇条の論題(贖宥の効力を明らかにするための討論』を提出して教会や神学者に対して議論を提起しました。

 1520年には教皇レオ10世から自説の撤回を命令されたルターでしたが、断固として拒否し、教会法典や届いた回勅を公衆の面前で焼き払い、強い姿勢を示しました。

 1521年、宗教改革に伴う政治的不安を危惧した神聖ローマ帝国皇帝カール5世によって、ヴォルムスの帝国議会へと召喚されたルターでしたが、ここでも「聖書に書かれていないことには服従できない」と断固として自説を撤回しなかったために異端者として教皇庁から破門され、さらには神聖ローマ帝国内での法的権利を全て剥奪する「帝国アハト刑」に処せられることとなりました。

 そこで彼を保護したのが、領内経済への影響から同じく贖宥状販売を良く思っていなかったザクセン選帝侯フリードリヒ3世でした。誘拐を装って連れ去られたルターは偽名「騎士イェルク(Junker Jörg)」としてヴァルトブルク城に匿われ、城内の暗い小部屋で新約聖書のドイツ語への翻訳を始めました。のちに、神学者トマス・ミュンツァーの過激な宗教改革に共鳴し破壊的反乱(ドイツ農民戦争)を始めた農民たちを見かねたルターは、城を出てヴィッテンベルクへと戻り、そこでドイツ語による新しい礼拝式文を定め、牧会を始めました。

 こうしてルター派教会、すなわちルーテル教会(注2)が生まれたのです。

 ただ、ルターは従来の教会を破壊しようとしていたのではなく、あくまで聖書のみことばに従って教会を改善しようと努力していただけでしたが、当時のローマ・カトリック教会からは抗議者つまりプロテスタントとして破門され(注3)、その結果として新たな教派が生じることとなったのです。ルターが指導した教会は、当時のカトリック側からは「ルタラーナー Lutheraner=ルター主義者」とも呼ばれており、これが「ルーテル教会 Lutherische Kirche」の語源となっています。

 時代とともにルーテル教会はドイツ・北欧を中心に世界中に広まっていきました。そして、1892年にアメリカ南部一致シノッドの宣教師であったR.B.ピーリーとJ.A.B.シェーラーによって日本におけるルーテル教会の宣教が始まりました。最初の日本福音ルーテル教会は佐賀で開かれましたが、当時の会堂は熊本県合志市に移築・修復され、現在はルーテル合志教会の会堂として用いられています。

(注1) イツ語: Sobald der Gülden im Becken klingt, im huy die Seel im Himmel springt.

(注2) 「ルーテル」は Luther の舞台ドイツ語読み。日本ではこちらの読み方がしばしば用いられていた​一般的なドイツ語口語では「ルター」と発音される。英語では「ルーサー」。なお、​「私には夢がある I have a dream.」で知られるマーティン・ルーサー・キングJr.牧師の名前の由来にもなっているが、彼はルター派ではなくバプテスト派の牧師だった。

(注3)歴史の中でルーテル教会とローマ・カトリック教会は激しい対立を続けていたが、20世紀中盤より幾度も対話を繰り返し、合同礼拝を行うまでに関係が回復している。日本でも2017年に宗教改革500周年を記念して長崎のカトリック浦上教会で合同礼拝が守られた。​同じ一人のキリストを信じる教会として、今も一致(エキュメニズム)のための対話が続けられている。

​神の「義」とルターの苦悩

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聖書を読む修道士ルター

ェルディナンド・パウエルス画 1860-1903

アウグスチノ会の漆黒の修道服に身を包み、髪を「トンスラ」に剃り上げたルター。エアフルトの修道院でルターは福音を「再発見」し、人は信仰のみによって義とされることに気づいた。この考え方を「信仰義認」という。これに対し、善行によって人は義とされるという考え方を「行為義認」というが、ルターはこれを「ローマ信徒への手紙」などに基づいて否定した。

 ルターが『95箇条の論題』を発表する少し前のお話。修道士ルターは神学博士の学位を取得し、大学で聖書を教えていました。

 そこでルターは一つの問題に出逢います。それはウルガタ版ラテン語聖書の詩篇30章2節(注)にある「あなたの義によって私を解放してください(in iustitia tua libera me)」という一節でした。

 それまでのルターにとって神の「義」とは、正しくない行いをする人間を裁き罰する根拠であり、それゆえ彼は神を「義に照らして罰する者」として理解していました。そんなルターにとってこの一節は非常に理解に苦しむもので、学生にもうまく説明できません。「義」と「解放(救い)」とがうまく結びつかないからです。

 聖書を研究し、熟考に熟考を重ね、悩みに悩み抜いたルターは全く新しい理解に至ります。ローマ信徒への手紙1章17節でパウロによって「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(新共同訳)と語られているように、神の義とは善い行いの報いとして与えられるものではなく、信仰者に対して無条件に与えられる「恵み」に他ならないことに気づいたのです。「神の義」とは「神の贈り物」であり、「裁きの神」だと思い込んでいた神は、実は「恵みの神」だったのです。

 この大転換は、ルターがエアフルトにある修道院の塔の小部屋でこの認識に至ったことから「塔の体験」と呼ばれています。

 

(注) ウルガタ聖書の詩篇は七十人訳ギリシア語聖書(セプトゥアギンタ)に基づいて翻訳されているため、現代で一般的に用いられている翻訳の底本であるヘブライ語聖書(マソラ本文)とは章番号の付け方が異なっている。新共同訳聖書では当該箇所は31章2節。

聖書の翻訳は「民衆の口を覗き込んで」

 さて、話は宗教改革の真っ只中に戻ります。

 改革前の教会の典礼用言語はラテン語だけでした。複雑で難解な古典語であるラテン語など、一般の民衆にはさっぱりわかりません。ミサでは説教を除けば意味のわからない言葉を聞くばかりでした。聖書も同様に、古典語であるギリシア語、ヘブル語、ラテン語のものしかありません。だからこそ、ルターは聖書を「俗語」であるドイツ語へと翻訳し、典礼をドイツ語で行うように改革したのです。翻訳にあたってルターは「民衆の口を覗き込んで適切な表現を探した」と語っています。つまり、民衆が日常で使う言葉に基づいた翻訳を行ったのです。聖書のドイツ語への翻訳は彼が初めてではありませんでしたが、民衆の口語に基づく翻訳は初めてのことでした。この理念は、子どもたちが聖書を正しく読めるようになるための読み書き指導を行う初等教育の振興へとつながってゆきます。

 また、それまでは司祭や聖歌隊だけによって歌われていたラテン語の聖歌を、誰でも歌えるドイツ語の親しみやすい讃美歌に整え、礼拝を民衆が親しみやすいものへと変えていったのです。讃美歌「神はわがやぐら(Ein' feste Burg ist unser Gott=われらの神は固い城)」(注)はルターの作詞作曲による最も有名なものの一つです。

(注)讃美歌('54年版)」267番、「讃美歌21」377番、「教会讃美歌」450番、「ドイツ福音讃美歌(Evangelisches Gesangbuch)」361番 など

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​ヴァルトブルク城内のルターの部屋

ここでルターは​新約聖書の翻訳に取り組んだ。什器などは信奉者によって持ち去られてしまったため、現存しているものは少ない。画像中央下にある鯨の脊椎(椅子のようなもの)は当時からあるものらしく、ルターは足置きとして使っていたという。また、翻訳作業中に悪魔を見て(精神的衰弱のため?)インク瓶を投げつけたという逸話があが、その痕跡も訪問者によって剥ぎ取られてしまったために残っていない。

ルター聖書

1534年出版のルター訳聖書

1534年に旧新約と外典が揃ったものが出版された。彼の翻訳はルター聖書Lutherbibelはドイツ聖書協会によって時代に合わせた改訂が続けられている。最新版は宗教改革500年の年である2017年に発行された。

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1533年出版の「神はわがやぐら」

『ヴィッテンベルク讃美歌』より。当時のルターは精神と肉体の両方に苦悩を抱えており、自分を励ます歌として詩篇46篇をもとにこの曲を作ったという。「主は自分の代わりに戦ってくださる」という信頼の歌である。

「歌う教会」〜ルーテル教会と音楽

 「音楽の父」といえばJ.S.バッハ。誰もが小学校の音楽室や教科書で見たことがあるあの人。彼は熱心なルーテル教会の信徒であり、ライプツィヒのトマス教会の音楽監督(トマスカントル)として多くの教会音楽を作曲しました。

 ルターは自身でも曲を作ったり、弦楽器リュートを弾いたりと、音楽を深く愛しました。彼の宗教改革は西洋音楽にも絶大な影響を与えたのです。これが、ルーテル教会が「歌う教会」と言われるゆえんです。

 ルターが作曲した讃美歌「神はわがやぐら」のメロディーは、バッハのカンタータ第80番「われらが神は堅き砦」、アウクスブルク信仰和議300周年を記念して作曲されたメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」、マイヤーベーアの歌劇「ユグノー教徒」などで用いられています。

カンタータBWV80楽譜

​カンタータ「われらが神は堅き砦」(BWV 80)の自筆譜

この作品の他にも、バッハは多数のルターの讃美歌をカンタータに編曲している。また、バッハは宗教曲の最後には必ず「SDG」(=Soli Deo Gloria、神のみに栄光あれ)と付記している。

95箇条の論題を発表
神の義とルターの苦悩
ルターの聖書翻訳
ルーテル教会と音楽
宗教改革
ルターよもやま話
ルターよもやま話
Luther's Stories
 

ルター、雷に恐怖して修道士に

修道士ルター

修道士ルター

​ルカス・クラナッハ(父) 画

​よく知られている肖像画と比べると随分​と痩せている。

 山業を営んでいた堅実な父親ハンスからの強い要望でエアフルト大学に入学し、哲学や法学を学んでいた青年​マルティン。成績も優秀で父親の期待を一身に背負っていました。​しかし、ある日の旅行中、雷が間近に落ちたところに遭い​死を覚悟した彼恐怖のあまり「聖アンナ様、助けてください!私は修道士になります!(注1)と叫んだとか。咄嗟の発言とはいえ請願を立ててしまったと思い詰めた真面目なルターはこれを神の召しと解釈し、両親​猛反対を押し切ってアウグスチノ修道会(注2)に入ってしまいました。

(注1) この言葉 "Hilf du Sankt Anna. / Ich will ein Mönch werden." が刻まれた記念碑がドイツのエアフルトにあり、名所となっている。

(注2) アウグスチノ会はアウグスティヌスが定めたとされる規則に従って​厳格な修道生活を送る托鉢修道会。有名な会員はルターの他に遺伝の法則を発見したグレゴール・メンデルがいる。

ルターの結婚と家族愛

カタリーナ・フォン・ボラ

妻 カタリーナ

​ルカス・クラナッハ(父) 画

1526年頃

​元修道女だったので、ビーの醸造はお手のものだったという。夫は愛情たっぷりに「ケーテ」と呼んでいた。

 ルターの修道制度批判に感銘を受けて次々と修道院を脱出する修道女たち。ルターはそんな彼女らの結婚の世話もしていました。聖職者の結婚禁止は聖書に根拠がないとして批判していた彼自身も、同様に​カトリックのシトー会(注)修道院から抜け出したカタリーナ・フォン・ボラと結婚しました。子宝にも恵まれ(中には病気で幼くして死んでしまった子もいますが)、楽しそうに家族のひと時を過ごすルターファミリーを描いた絵画も残っています。

 カタリーナは料理上手でやりくり上手だったらしく、自家製のビールやソーセージは​絶品で家族だけではなく友人にも振るていたそう​元々修道院だった自宅の空き部屋に学生を下宿させて得た収入でルターの改革を経済的に支えたのも彼女でした。修道院時代に比べ、結婚後はかなり肉付きがよくなってしまったルターの肖像画を見ると、なんとも微笑ましいものです。(しかしながら、痛風や便秘などの病にも苦しめられたようです。)ルターは著書で妻のことを「私の女王様」と呼んだこともあります。

 ルターの家族愛は相当なもの。彼女(カタリーナ)が私を愛するよりも、私は彼女を愛している​、彼女が子どもたちと死ぬより、むしろ私の方が死にたい」と語っています。ルターは教育にもしっかりとした持論があり、「父親が子のためにできることは最もふさわしい教師を探し出すことだ」と語り、子どもを学校で学ばせることの重要性を説いていました。

(注) ここでいうシトー会とは、国内では北海道や大分などにもある厳律シトー会(トラピスト​/トラピスチヌ)ではなく、その源流となったベネディクト会系の修道会​(別名ベルナルド会)のこと。

ルターが愛した「世界一うまい」ビール

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ドイツのヴァイツェンボック

とあるビアホールにて

​これは小麦が原料のヴァイツェンボックであり、ルターが飲んだとされるもっとダークな色合いの伝統的なボックとは異なるが、これも旨みが強くて美味

 ルターを語る上で欠かせないのがビール。

 修道院では客をもてなすために造られ、また修道士にもよく飲まれていました。(生水は感染症の恐れから避けられ​ており、その代わりにビールが水分と栄養の補給のために飲まれていました。そのため「飲むパン」とも呼ばれていました。)現代でもあちらこちらの修道院で醸造されています。ベルギーの「シメイ」などが有名ですね。

 ルターはビール、特にアインベックで造られるコク深くアルコール度数も高い「ボック」が大の好物で、「人類にとって最もうまい飲み物」と称賛するほど。利尿作用を目的に飲んでいたということもありますが、ただ単純にビールが大好物だったようです。しかしながら愛妻カタリーナが作るビールがドイツで一番だと周囲に自慢したこともあるらしく、カタリーナへの愛情は彼の熱烈なビール愛にも勝るものだったのでしょう。ビールが無いのならば、飲むものなどない」、「私がここに座ってうまいヴィッテンベルクのビールを飲む、そうすると神の国がひとりでにやって来る」、「ビールを飲むと寝てしまう。寝てしまえば罪を犯すことはない。罪を犯さなければ天国に行ける。だからビールを飲もう」という名言も現代に伝えられています。

 ヴォルムス議会喚問に臨む直前には彼の支持者から一杯のボックビールが差し入れられ、彼を元気づけたとも言われています。この一杯が無かったら、もしかすると宗教改革は成功していなかったかもしれません。

ルターとボウリングの意外な関係

ルターと家族、友人
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歌うルターと家族

​G. シュパンゲンベルク画 1875年頃

​ルター向かって左側の男性は人文主義者フィリップ・メランヒトン。盟友としてルター神学の体系化に貢献。​その右手にはビアマグらしきカップが(左)。

 ビールの他にルターを語る上で欠かせないもう一つの話題がボウリング。

 ピンを複数立てて球を転がして倒すというスポーツは紀元前から存在しており、中世ヨーロッパのキリスト教界でもピンを悪魔に見立てて倒すという悪魔祓い的な意味を持たせたものとして修道士や司祭によって行われていましたが、ピンの数や並べ方はまちまちでした。そこでルターが9本のピンを菱形に並べるというルール統一したと言われています。(現代ではもっぱら10本のピンを三角形に並べるルールで行われていますが、これは19世紀にアメリカで考案されたルールと言われています。)

 きっと家族や友人たちとビールを飲みながらボウリングで盛り上がっていたことでしょう。

 神だけではなく、家族、友人、音楽、酒、そして遊びをも深く愛したルターはこのような言葉を残しています。「神は私たちが喜ぶのを願い、悲しむのを嫌う」と。

参考文献

  • 徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』教文館, 2007.

  • ————『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波新書, 2012.

  • ————『ルターと讃美歌』日本キリスト教団出版局, 2017.

  • M.ルター 著, 植田兼義 訳『卓上語録』教文館, 2003.

  • ————, 深井智朗 訳『宗教改革三大文書 付・「九五箇条の提題」』講談社学術文庫, 2017.

ルター、雷に恐怖して修道士に
ルターの結婚と家族愛
ルターとボウリングの意外な関係
ビール
ルターのバラ
​ルターのバラ
"Die Lutherrose"

 ルターが彼の著書や自邸で用いていた紋章がこの「ルターのバラ」です。この紋章には「バラの上にあるキリスト者の心臓は、十字架の真下にあるとき脈打つ(ドイツ語:Den Christenherz auf Rosen geht, wenn's mitten unterm Kreuze steht.)」という表題が付けられています。「彼(=キリスト)は生きている(ラテン語:Vivit.)」と書き添えられることもあります。

 黒い十字架は「キリストの受難」、赤いハートは「復活と永遠の命」、白いバラの花は「信仰による慰めと平和」、地の青は「天の国の喜び」、金色の輪は「永遠の至福」を表しています。(参考:Weimar版ルター全集,第4集,第5巻,445頁)

 このマークは現在でもルーテル教会のシンボルマークとして、世界中の各所で用いられています。

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